[20200203]願いと文脈

前にこんなことをつぶやいた

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これは単なる僕の思想の話なんですが。
[あるべき文脈があって]→[結果が出る]よりは
[結果が在って]→[あるべき文脈が来る]だと思っている。
文脈はあくまで、結果のためのつじつま合わせに存在していて。
結果を[願い]と言い換えることもできて、「願いは文脈に縛られてはいない」のだと思う。
[獣耳が女の子の頭に生えていて欲しい]という願いが先にあって、
それが存在するための文脈が後からついてくる。

僕らは正方向へ進むタイムラインで動いている。基底現実では過去に未来が支配されているように思うけど、それは錯覚だとも思う。たとえばゲームエンジンにおいてのタイムラインを考える。プログラム内には過去も未来も無い。ただ"タイミング"が異なるだけだ。10フレーム目に"原因"となるイベントが在って、60フレーム目に"結果"となるイベントが在るとき、それらはタイムライン上で異なるタイミングに起こされるだけで、それらのイベントはどの時点でもプログラム上に存在はしているわけだ。基底現実とゲームエンジンは、実は構造上同じなんじゃないかと僕は思っている。タイムラインを流れるあの棒が人間だ。

"思考や感情は脳の電気信号に過ぎない"という話がある。
これも、[電気信号が発生]してその"結果"として[感情が発生する]のではなくて、
どちらかといえば[感情が発生]するためのつじつま合わせに[電気信号が発生]するのだと思っている。
たとえば、きちんと観測したらタイムライン上の順番としては423フレームに[信号]→586フレームに[感情]だとしても、
『"423フレーム目に[感情]が起こって欲しい"という願いが先にあって、”そのためには感情を発火させる[信号]が必要なので586フレーム目にそれを置く"というつじつま合わせをした』
というほうが僕はしっくりきます。順番にするなら上みたいな感じなんじゃないかと思ってるけど、どっちが先とかも実は無くて、多次元的に/完全に同時に起こっているのかもしれない。

みたいな構造、であってほしいなとか空想しています。