20220415 空間と、知性 "The Witness"

「知性を持った空間」というものについて考えることがある。
空間そのものが知性を持った存在として感じられること、こちらの行動や思考に対し明確に意思を持っているようにふるまうこと、そのように感じられる空間のこと。また、そのような状況のこと。

そもそも、例えばどのようなゲームであっても、そこには作り手が在って意志が存在している以上、そのゲームは"知性"を持っていると言える。その上で、それが単なる意志の記録ではなくて、目の前に知性を持った何者かが在って、今まさに確かに"対話"しているような感覚を覚えることがある。それが特にそのゲーム及びその空間、その世界の"知性"を感じる瞬間だ。

Amebientはそのようであってほしいと思っていたし、実際、そのようであると思う。

自分は今何者かをみていて、何者かも今自分を認識している、そういう感覚である。
メタ表現を用いた作品で特にこの感覚を得やすいと思う。相手との距離の近さ、これは一方向ではなく双方向だ、という認識が鍵で、それでいうとメタ要素は"こちら側"に簡単に近づけるものなので便利なんだと思う。相手がこちらを認識しているということを認識できるので。

The Witnessは、(色々と見てないものがあるけど)、やはり単なるゲームじゃないと思うし、phiさんが(恐らく多大なる)影響を受けたというのも納得できる(気がする)。
これのクリアは終わりではなくて、また新しいフェーズがはじまった感じがする。

実際にENDまでいって感じたこの作品の"思想"は、クリアする前にゲーム内の某をみせてもらったときから既に感じていた。
“人の意味と本質は、飽くなき知の探求、偉大なる真実への冒険にこそある”

20220103 夏と呪い

作戦概略を読んだ。

 

ヨツミさんが紛れもなく感情のある一個人であることが垣間見えて、素直に嬉しいと思った。
そして、不安で仕方がない。ヨツミさんに対して、自分がどれほど創作へ真摯に向かっているのか。精神的に向上心があるのか。

 

9月に書いたメモがあった。

 

プレイして、まだヨツミさんに「楽しかったです」の一言も言っていない。
字幕の誤字とポリゴン抜けの報告しかしていない。

 

感想を書こうと思ったけどまとまらなくて書いたものの一部だった。このあと色々と思うことを書いていて、ここに載せようかと思ったけど、概略を読んだ今そのまま出すのはどうしようか迷っている。

 

なんか、ヨツミさんのことが好きみたいな感じを出してるくせに、では実際にどれほど純粋に作品を受け取れているのだろうかというと、わからない。

 

アスタリスク花言葉」で、自分も色々な感想を見た。自分は「何をどうしたら、こんなものを見せられて苦言や批判などできようか」と思うくらいだったので、感想やコメントの内容によってはめちゃくちゃムカつくことがあったけど、では世のあらゆる作品に対して敬意ある態度が取れているだろうかというと、自信が無い。ヨツミさんの意思を、本当に真摯に受け取っているのか。自信が無い。

 

自分が「衆愚」であることが怖い。凡庸で、愚かで、何も生み出さず、作品をコンテンツとして消費するだけの人間でいることが怖くて、ここのところ、ずっと胸がキリキリとしている。

 

意志と能力のある人たちに囲まれて、色々とつくってきている筈なのに、自分一人のことを考えると不安で仕方がない。

クリエイターの真似事をしているだけの、空虚な人間のまま死んでいくことが、怖い。怖くてたまらない。こんなにも、死ぬこと以上に怖いことは無い。

 

創作とかけ離れたところで「最高の夏」に囚われたまま何も疑わず死んで行けたなら、こんなに楽なことは無いだろうと思う。けれども、それは叶わない。

 

こんなにも苦しくて、こんなにも不安なのに、どうしようもなく生きているのだから、仕方ない。どうしようもないのだから、どうしようもない。少しでも死なないように、成長するしかない。

20211124 日記

何よりも嫌いなのは、無かったことにされること、無視されることで。だから、「見ないでいられると思うなよ」と呟きながらものづくりをしている。

 

VRChatは実力主義だと思っている。自分は。
本質の伴わないものはすぐにバレてしまうし、響かない。かなり厳しいけれど、逆に、本質的なものは正当に評価される場所でもある。"良い"ものは、ここにある密接な繋がりによって、時に驚くべき速度で波及していく。

 

そうして培われたものたちを、もう見ないでいることなどできないのだ。いつのまにかメディアの中に染み込んでいて、古い認識は自覚ないままに塗り替えられていく。気付かないままにそれらは"ふつう"としてそこに在るだろう。

20211105 メタ的な

メタバースと言ってしまうとそれは結局既存の概念であって、『過去に考えられた未来』でしかないんじゃないか、と思っている。新しい概念には新しい言葉が必要なのだ。みんな短絡的に使いすぎなんじゃないかと思い、ムカついたので、メタバースという言葉の元であるスノウクラッシュを買ってみた。まだ上巻の途中までしか読んでいないが、かなり古い作品なのに最近刊行されていたとしても不思議ではないくらいに内容がカジュアルというか、面白いし読み易い。で、メタバースというのは作品内における仮想現実の大きなプラットフォームの総称で、サマーウォーズでのオズみたいなものだった。描写的にも技術的にも、現在のHMDを用いたVR体験とかなり近い。最も大きく違うのは、これは他のVirtualRealityを扱う作品全般でもそうだけど、それらではまず大きな世界がドンとあり、同じ世界の中に人々がアクセスしていく。人々は、目的によってその世界の中で建築したり拡張したりしてやり繰りしていく。対して、VRChatはもっとこじんまりとしている。ひとつの世界には同時に100人も存在できない。だけれども、Massiveでないというだけで、狭いけれどもその体験の質はかなり面白いことになっているというか、派手さはなくとももっと身近な体験としてじわりじわりとキているというか、まあそんな感じがする。で、VRChatとか現在のその他プラットフォームで恐らく共通していると思うのは、フィクションにおけるVirtualRealityが世界ベースなのに対して現実では目的ベースだということ。「世界があって、目的に応じてなんやかんやとする」のではなくて、「目的があって、それに応じて世界をつくる」のが現状であると思う。考えてみればそうで、基底現実ではそもそも最初から地球があって宇宙があるのでそこでなんやかんやとするのはまぁそれはそうだけど、そもそも何もない状態なら、わざわざ「既存の場所」で何かする必要なんかなくて(ここにそんなものはないのだから)、何かやりたいことがあるならそれ用のRealityをつくってしまえばいいのだし、なんの目的も無い「ただ広大な世界」を用意することに意味はあるのだろうか。いや、行けるところがたくさんある大きな世界みたいなのは普通に行きたいし普通にワクワクするけど、べつにVirtualRealityだMetaverseだと言った時にそれがMassiveなものでなくとも別に良いというか、ついそういう発想に縛られてる感じがあるんじゃないかなというか。そもそも、じゃあMetaverseに一番近いのは何かって言ったら僕はVRChatだと思うけど、VRChatはひとつの巨大な世界では特に無くて、体験を共有するための場でしかないというか、繋げているだけ。VRChatに居る人間はもともと存在している人間だし、そこにある空間もそもそも作者や人々のイメージに存在しているもので、だからここは新しい何かというよりも、もともと存在していたものを別の角度から見たりとか、気づいていなかったことに気づくとか、基底現実から本質的なものだけを持ってきてみるとか、そういうところだと思う。基底現実とVirtualRealityは相互にフィードバックさせれるんじゃないかなと思う。ルールの違う二つの現実を行き来して、それぞれでなんやかんやとやっていくと、そこに遍在する自分の存在の本質みたいなものが、まぁちょっとはわかってくるんじゃないかなというか、そうなったらいいなと思う。

20210718 日記

ある場における齟齬というのはコミュニケーション上での"逃げ"の結果として発生する、という風に考えている。逃げは"嘘"とも言い換えられる。

 

「何かを言いたくないけど言う」というのは嘘だし、「何かを言いたいけど言わない」というのも嘘だと思っている。

 

場に嘘があると、直接的な因果関係が一見して無くとも、ある種の齟齬が発生してしまうのではないかな、と思っていて、また逆に何らかのそういう齟齬が起こったときというのは、場に少なからず"嘘"があったのだと思う。場というか、正確には、自分に。

 

僕は最近は『言いたくないけど言う』ような嘘は付かないようにしていて、つまり社交辞令的というかそういうことを極力避けるようにしている。でも、『言いたいけど言わない』方の嘘は、まだついてしまっている気がする。これは消極的な嘘だ。

 

なので、もっと素直になりたいな、と思いました。話したいことは、ちゃんと話すのがいい。ってことで。

そんな感じです。おやすみなさい。

20210504 GCの縁と、これから

日記を読んだ。直接言及されると思っていなくて、けっこう(かなり)効いている。

以前何処かでVRCの振り返り記事を書いたときに一緒に書いたかもしれないけど、GHOSTCLUBは色々な縁が凝縮していて。
今はよく通っている場所でもあるし、制作の方にもちょこちょこと関わらせてもらっている。

 

ナンセンスマンションをみた時とか あまりにも良くて うらやましくて。こんなものをつくる側に行けたらいいなと思っていた。本当に自分がやりたいことが、これだと思った。でもその時はおばけとよく話すとかじゃなかったし、GHOSTCLUB自体に「やってたら毎回行く」くらいの「通う」状態ではなかった。だから、自分が"あっち側"に行く流れがまったく想像できなくて、わりと諦めていた。

 

あるときに、またそんなことを考えていて、結論として出したのが「やるべきことをやっていれば自然と流れが来るから、そのときに乗り遅れないようにしていよう」だった。願いは明確に持ちつつ自分の表現を続けていれば、きっとそういう(誘われたり、なんやかんやで参加したりするような)タイミングがあるだろうと。焦ってもしょうがないし、どうせ…と諦めるのも違うし、とりあえずやることやってようと。そんなことを思った。

 

その次の日に、霧クで誘われた。ずっこけちゃうね。ありがとう。
それが2019の11月末とかだったと思う。年越し用のお船をつくるのに協力してほしいという話で、快諾した。僕は細々としたもの、年越しそばとか液体幽霊の冷蔵庫とか、ケータリング的なことを担当した。それがGCの制作に関わった最初の機会だった。

 

よく考えたら、その前の夏の河クで鳥居や灯篭流しを持ち込んでるから、勝手にワールドに組み込まれに行ってるんだよな。既に入り込んでいたのかもしれない。何気に、飛び飛びではあるけどク自体には2018年から行ってはいるし、おばけともたまに話すことはあったと思う。だから縁はずっとつながってたんだろうと思う。

 

今はこうしてGHOSTCLUBに通うようになって ワールド制作にも関わっているんだけど、たまにこの状況を見直すと、自分がここに居ることに なんだか不思議な気持ちになる。

 

エンディングについて。

僕はあまり、寂しさを感じていない。あれらは、今のここに全部つながっていて、全部がここに存在してるから。今までずっと"次"をやり続けてきて、これからも"次"があることを知っているから、悲しむようなことは何もないんだな、と思っている。エンディングで泣いたのは、色々な感情が混ざってはいたけど、その中に悲しみはなかったと思う。だから僕も、さっぱりした気分でいる。

 

おばけ。
良い空間をつくってくれてありがとう。巻き込んでくれてありがとう。僕も成長しながら、良いものをつくっていきたいと思います。これからもよろしく。

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20210503 日記

あーーー しんどい もうおしまいです さようなら

こういうときいつも、色々な思考に邪魔されて感動できなかったらどうしよう みたいなことを考えて不安になっちゃうんだけど なんかそういう小さいことはマジの重みの前だと何にもならないですね。花火が上がったあたりでもうだめだった。盆と船のとこでもう「あっはっは〜」って笑いながらぼろぼろ泣いてた。隣で寝る前ちゃが泣いてたのも合わさってしばらくそんな感じだった。 

あれはこう もちろんGCの歴史なんだけど GCの歴史ってぶいちゃの歴史に差し支えなく、自分が最初にVRCに来てからここに至るまでの三年間の間にあった縁を思ってしまったりして、どういう感情なのかまったくわからないままにただただ泣いてしまった。

なにかあるだろうなとは思ってたし、「さようなら、すべてのGHOSTCLUB 」をやるんだろうなと思ってたんだけど、想定以上にめちゃくちゃ食らった。予想してようが何してようが本当の暴力の前には何の意味もないね。

今日はもう寝ます。朝5時過ぎてますが。

たのしみだね。
おやすみなさい。